11月に玉野高校でプレゼンテーション講座を行うことになった。準備を進める中で、ずっと引っかかっていることがある。学校で教えられるプレゼンは「自分の伝えたいことをうまく伝える技術」として完結しがちだ。でも、そこに「相手」はいるか。主体性・自主性という言葉が、自分の内側に閉じていく方向で使われていないか。相手との接点を見つけに行く、作りに行く——そっちの方向に主体的に動くことが、プレゼンの本質じゃないかと思っている。
プレゼンから「相手」が消えている。
11月に玉野高校でプレゼンテーション講座をやることになった。 それに向けて、ここ最近ずっと考えていることがある。
「プレゼンって、何だろう?」
そう問い直したとき、なんとなく感じていた違和感の正体が少しずつ見えてきた。
「伝える」だけがプレゼンじゃない
学校でよく教えられるプレゼンの作り方は、こういう構成だ。
- 結論を最初に言う
- 根拠を3つ出す
- わかりやすくまとめる
悪くはない。でも、何かが抜けている。
「伝える」という行為に集中するあまり、「誰に」「何のために」という部分が後回しになっていないか。自分の言いたいことをいかに上手く伝えるか、という技術論に終始していないか。
プレゼンの練習をした生徒が、「うまく言えた」「緊張したけど最後まで言えた」と満足しているのを見ると、それはそれで大事なことだと思う。でも同時に、「で、相手はどうだった?」という問いが頭の中でずっと残る。
「主体的」から相手が消えていく問題
最近の教育キーワードに「主体的な学び」「自主性」がある。 これ自体は大切なことだと思う。自分で考えて、自分で動く。それは本当に重要だ。
ただ、現場にいると、「主体的」という言葉が使われるとき、なんとなく「自分の中に閉じていく方向」に向かっていることがある気がしている。
自分のやりたいことをやる。 自分のペースで進める。 自分の言葉で語る。
どれも大事だ。でも、そこに「相手」はいるか?
主体性というのは、自分の外側に向かう力のことだと思う。
自分の内側をどれだけ耕しても、それだけでは誰かとの接点は生まれない。主体的に、相手との接点を「見つけに行く」「作りに行く」こと——そっちの方向に主体性を使ってほしいな、と思っている。
プレゼンで言えば、「自分の伝えたいことを伝える」だけなら、それは独り言の洗練された版にすぎない。プレゼンが本当に機能するのは、「相手がどう受け取るか」まで想像して設計されているときだと思う。
「相手」を想像することは、相手に媚びることじゃない
ここで少し補足しておくと、「相手を意識する」というのは、「相手に合わせて自分を消す」とか「ウケることだけを考える」とは違う。
相手に媚びることと、相手を想像することは、全然違う。
自分の考えを持ちながら、「この人はどんな文脈でこれを聞いているんだろう」「どんな言葉が届くんだろう」と考える。それが、本当の意味での「コミュニケーション」じゃないか。
これ、実は大人でもできていない人が多い(笑)。プレゼンテーション研修で「もっとわかりやすく」と言われ続けた結果、自分の言いたいことをシンプルに削ることはできるようになったけど、「相手の頭の中に何があるか」から逆算する設計ができない——そういうケースはよく見る。
生徒に教える前に、自分たち大人がそのことを問い直すべきかもしれない、とも思っている。
11月に向けて、講座をどう設計するか
玉野高校のプレゼン講座は、11月に予定されている。 まだ詳細は詰めている最中だけど、少なくとも「うまく話す技術」だけを教える場にはしたくない。
「相手は今、どんな状態にいるか?」 「自分のこの言葉は、相手の何かと接続するか?」 「接続しないなら、どう橋をかけるか?」
そういう問いを、生徒自身が立てられるようになる場にしたい。
プレゼンは技術じゃなくて、設計の問題だと思っている。相手の地図を読みながら、自分の伝えたいことへの道筋を作る——そういうイメージ。
まだ答えは出ていない。でも、「相手のいるプレゼン」という視点を軸に置いたとき、何か面白い講座ができそうな予感はしている。
現場で生徒の反応を見ながら、また考えが変わるかもしれない。それでいいと思っている。
著者
西田井祐也|社会教育士
