「地域を理解する」より先に、「分解する」話をした。
今日、玉野高校の1年生と2年生に向けて、「総合的な探究の時間」の講師として呼んでいただいた。
テーマは「地域理解」。
ひと昔前なら「地域の課題を調べて、解決策を考えましょう」で終わるような内容だけど、そのアプローチが機能しないことは現場にいれば誰でもわかる。生徒たちは「地域の課題」を大きな塊のまま受け取って、途方に暮れてしまう。リサーチしたとしても、検索上位に出てくる「人口減少」「高齢化」「過疎化」をそのままコピーするだけ。探究どころか、情報のトレースになってしまう。
そこで今日、私はあえて「地域理解」の話を後回しにした。まず最初に「分解する」という話をした。
「理解できない」のは、大きすぎるからだ。
ちょっと考えてみてほしいのだけど、私たちは日常生活の中で「分解」をめちゃくちゃやっている。
料理をするとき。「夕飯を作る」という大きなゴールを、「食材を切る」「火にかける」「味を整える」に分解している。仕事で企画を立てるとき。「イベントを成功させる」を「集客」「コンテンツ設計」「当日運営」「振り返り」に分ける。子どもに何かを教えるとき。一気に全部を伝えるのではなく、ステップごとに小さく渡す。
これって当たり前すぎて、意識していないことが多い。
でも「探究学習」という場になった途端、なぜかこの「当たり前」が消える。「地域の課題を探究しよう」という大きなお題をそのまま丸ごと持ち上げようとして、「重くて無理」ってなる。
理解できないのは、アイデアがないとかじゃない。対象が大きすぎるからだ。
これは探究学習に限った話ではなくて、仕事でも人生でも同じ構造だと思う。
疑問が、全部の入口になる。
今日の講義で伝えた5つのステップを改めて整理すると、こんな感じになる。
- 疑問を持つ(モヤモヤ、違和感、「なんで?」)
- 情報収集をする
- 分解する(←ここが最重要)
- 発見する
- 再統合する
最初の「疑問を持つ」というのは、実はかなり難しい。難しい、というか、見落としやすい。
私たちは日常的に「答えを探す」ことに慣れすぎていて、「問いを立てる」ことが苦手になっている。でも探究の本質は、答えを見つけることよりも、良い問いを持てるかどうかにある。
「なんか変だな」「これ、なんでこうなってるんだろう」「当たり前だと思ってたけど、本当にそうなの?」——そういうモヤモヤが、全ての始まりになる。
心理学でいう「認知的不協和」に近い感覚で、自分の中に「ズレ」を感じたとき、人は自然に解消しようとする。だから疑問は「持とうとする」ものではなく、「気づく」ものだ。そのためには、日常をぼんやり過ごすのではなく、少しだけアンテナを立てて生活することが大事になる。
「分解する」は技術だ。センスじゃない。
今日の講義で一番伝えたかったのは、「分解は才能じゃない」ということだった。
どうしても「探究が得意な人」「地頭がいい人」というものがいて、そういう人だけが上手に物事を分析できる——そういうイメージを持っている生徒が多い気がする。でもそれは違う。
分解は技術だ。練習すれば誰でもうまくなる。
たとえば「玉野市の人口が減っている」というテーマをそのまま扱おうとすると、途方に暮れる。でも分解してみると、一気に手触りが変わる。「なぜ人が減っているのか」「減っているのはどの年代か」「転出が多いのか、転入が少ないのか」「転出している人は、どこへ行って、なぜ行くのか」——こうして「なぜ」と「どこ」と「誰」に分けていくだけで、突然「自分が調べられそうなこと」が見えてくる。
これは分析力でも地頭でもなく、「問いを小さくする習慣」があるかどうかの違いだと思う。
みらいづくりセンターがやっていることも、実は「分解」だ。
NPO法人 玉野SDGsみらいづくりセンターは、いわゆる「中間支援組織」と呼ばれる立ち位置で活動している。
地域には様々な課題がある。でもそれは「地域の課題」という大きな塊のままでは誰も扱えない。だから私たちは、課題を分解して、それぞれに対して動いている団体や個人を繋いでいく。「誰が」「何をしていて」「何を求めているか」を細かく見ていくことで、初めて「ここに繋がりができる」という接点が見えてくる。
今日の講義でも、地域で活動する様々な団体を紹介したのだけど、それも同じ発想だ。「地域活動をしている人たち」という括りではなく、「漁業を守りたい人」「子どもの居場所を作っている人」「移住者を支援している人」と分解して伝えると、生徒たちの目が少し変わる気がした。
「あ、そういう人が玉野にいるんだ」という発見が生まれる。それが、地域との距離を縮める最初の一歩になる。
地味な話かもしれない。「分解しよう」なんて、言われてみればそりゃそうだ、という話だ。
でも「そりゃそうだ」ということが、実際にはできていないことが多い。大人でも。私自身でも。
だから今日の講義が、生徒たちにとって「探究を楽しむための道具」として残ってくれたら、それで十分だと思う。
もしかしたら来週にはもう忘れているかもしれない。でも「なんか見たことある」くらいのレベルで脳みそのどこかに引っかかっていれば、何かを分析しようとするとき、ふと「あ、分解してみようか」と思い出してくれるかもしれない。
地道だけど、それがいちばん確かな伝え方だと、たぶん思っている。
著者
みらいづくりセンター
