特定非営利活動法人 玉野SDGsみらいづくりセンター
日記

【コーディネーター日記】東児中・商工高校。「作業」こそが、クリエイティビティの正体かもしれない

2026年6月5日西田井祐也|社会教育士6分で読めます

コーディネーター日記

「作業」こそが、クリエイティビティの正体かもしれない


音楽家の話から始めよう。

ジャズピアニストが即興演奏をするとき、その「自由」はどこから来るのか。答えはたぶん、何千時間もの「不自由」から来ている。スケールの練習、コード進行の反復、耳コピ、模倣——地味で、苦しくて、ステージとはかけ離れた作業の積み重ねが、あの「自由に聞こえる音楽」を可能にしている。

今日、2つの現場を回りながら、ずっとそのことが頭を離れなかった。


東児中での時間——テーマは「点」じゃなくて「線」だ

午前中は東児中へ。昨年度の振り返りと、今年度の方向性についての打ち合わせだった。

先生が丁寧に保管していた生徒たちの発表スライドを、一緒に見せていただいた。写真、図解、手書き文字——それぞれの生徒の「思考の形」が可視化されたスライドが並ぶ。見ながら気づくのは、テーマの多様さだけじゃない。生徒たちが何に「引っかかった」のか、その引っかかりの質が、スライドの随所ににじみ出ていることだ。

「このテーマを今年どう繋げて、どう深めていきますか」

先生のその問いが、すごくよかった。

「今年の探究」を点で捉えるんじゃなく、昨年の問いと今年の問いを「線」として繋げようとしている。それは、生徒の思考をストーリーとして見ているということだ。探究とは、積み重なっていくものだという前提がある。

このまなざしがある現場は、強い。

テーマを繋げることと深めることは、実は別の作業だ。「繋げる」は過去との対話で、「深める」は今の問いを掘り続けることだ。その両方を意識できると、探究が1年ごとにリセットされなくなる。生徒の中に「続きがある感覚」が生まれる。それが、主体性の根っこになると思う。


商工高校での問い——自由は、一番の不自由かもしれない

午後は商工高校へ。

教室に入る前、自分の中に問いを立てた。「生徒に作業を与えることは、探究の邪魔になるのか、それとも探究の燃料になるのか」。

探究学習の文脈でよく言われることがある。「答えを与えない」「レールを敷かない」「生徒の主体性に任せる」——すべて正しいし、大切だと思う。でも現場に立ち続けていると、ある違和感が積み重なってきた。

「何をしてもいい」は、想像以上に難しいことだ。

白紙の前に座らされた生徒が最初に感じるのは、自由じゃない。たいてい、途方に暮れる。

冒頭のジャズピアニストの話に戻る。彼らが即興で弾けるのは、音楽理論という「制約の地図」を体に染み込ませているからだ。料理人が食材制限の中でクリエイティブになれるのも、調理の基礎という「型」があるから。クリエイティビティとは、制約と踊る能力のことだと思う。

だとすれば、探究における「地味な作業」——調べる、書き出す、比べる、問い直す——これらは探究の「邪魔もの」じゃない。クリエイティビティの基礎練習だ。

問題は作業があるかないかじゃなく、その作業に「意味を感じられるか」どうかだ。「やらされている」と感じる作業と、「これが探究に繋がっている」と感じる作業は、内容が同じでもまったく違うものになる。コーディネーターとして考えたいのは、作業の「量」じゃなくて「文脈の設計」だなと改めて思った。


グループ探究という、もう一つの難問

もう一つ、頭の中でぐるぐるしていたことがある。グループで探究することの本質的な難しさだ。

個人の探究とグループの探究は、まったく別の生き物だと思う。

グループになると、「みんなが言いやすい方向」に引力が働く。強い声、多数決、なんとなくの雰囲気——集団バイアスという名の重力が、思考の多様性をじわじわ均一化していく。これは意地悪や怠慢の話じゃなくて、人間が集団の中でサバイブするために持っている、ごく自然な傾向だ。

だからこそ、グループ探究には「チームビルディング」という前工程が要る。一緒に何かを笑える関係、失敗を笑い話にできる空気、「あいつのぶっ飛んだアイデア、面白くない?」と思えるチーム。それがないまま探究を始めると、グループはただの「安全な答えを出す機械」になってしまう。

そして、その土台になるのが心理的安全性だ。「こんなこと言ったら笑われるかも」という検閲が内側で動いている場所では、本当の探究は生まれない。おかしな問いを出せる場所、正解じゃない発言が歓迎される場所——そこから初めて、グループの探究は個人の探究を超えはじめる。

バイアスを崩すにはチームが要り、チームを作るには安全性が要る。この順番を無視して「さあ探究しよう」と言っても、生徒は動けない。


コーディネーターがデザインするのは、「火が起きやすい場所」だ

今日の2つの現場で共通して感じたこと。

教育って、「何かを教える仕事」じゃなくて、「何かが起きやすい環境を整える仕事」だと思う。東児中の先生がスライドを丁寧に保管して「去年と今年を繋げよう」と考えていたのも、商工高校で「どんな作業設計が生徒の探究に繋がるか」と問い続けることも——全部「場のデザイン」だ。

私がコーディネーターとしてやれることも、そこにある。正解を渡すんじゃなく、正解を探したくなる場をどう設計するか。

音楽で言えば、楽器の調律をする人。曲を弾くのは生徒たちだ。

まだまだ模索中だし、答えは出ていない。でも今日みたいに、現場で「あ、そういうことか」と思える瞬間が積み重なっていくと、この仕事がどんどん面白くなっていく。

それはたぶん、私自身が「探究の途中にいる」ということなんだと思う。

西

西田井祐也|社会教育士