特定非営利活動法人 玉野SDGsみらいづくりセンター
日記

コーディネーター日記 |玉野高校。「黙っている子」の話じゃなくて、「黙っていた自分」の話だ。

2026年6月10日西田井祐也|社会教育士6分で読めます

コーディネーター日記

「黙っている子」の話じゃなくて、「黙っていた自分」の話だ。

正直に言う。

グループワークで黙っている生徒を見るたびに、僕はなんとなく焦る。「どうしたんだろう」「関われていないのかな」「この設計がまずかったか」——そういう気持ちがじわじわ湧いてくる。

でも今日、その焦りの正体にやっと気がついた。

あれは、かつての自分を見ている感覚だ。


僕も、ずっと黙っていた側だった

学生時代、グループワークが苦手だった。

「なんでも言っていいよ」という雰囲気の中で、僕はいつも黙っていた。正確には——言葉はあった。頭の中には、ちゃんとあった。でも出てこなかった。

なぜかと問われると、うまく言えなかった。怖かったわけじゃない、たぶん。ただ、自分の中でまだ「固まっていなかった」。ぼんやりとした霧みたいなものが頭の中にあって、それを言葉にする前に「みんなの会話」が始まってしまう。

乗り遅れた、と思う。乗り遅れたまま、その時間が終わる。

それが積み重なって、「グループワークは、発言できる人のための時間だ」という感覚が自分の中に静かにインストールされていった。


コーディネーターになって、最初にやってしまったこと

玉野高校でコーディネーターとして動き始めて、探究の授業に関わるようになった最初の頃——僕はたぶん、「場を盛り上げること」に気を取られすぎていた。

生徒が話せていないと、つい声をかける。「どう思う?」「何か考えてること、ある?」——善意だった。本当に善意だった。でもその声かけが、余計な圧力になっていた可能性がある、と今は思う。

「話さなければならない空気」を、僕が作っていた。

あの学生時代の自分が、まさにそういう「声かけ」で余計に黙ってしまっていたのに。自分がされて嫌だったことを、気づかないうちに再生産していた。

自分がかつて黙っていた理由を忘れたとき、人は無意識に「黙らせる側」になる。


「個人→集団→個人」にたどり着いた経緯

そういう葛藤の中で、少しずつ設計を変えていった。

まず、最初に「一人で書く時間」を作ることにした。声を出す前に、手を動かす。何を思っているか、紙の上に出す。それだけ。評価されない。誰にも見せなくていい。ただ書く。

すると、何かが変わった。

その後のグループワークで、「あ、俺こう思ってたんだ」という顔をする生徒が出てくる。書いたことで、自分の考えが「自分のもの」になる瞬間がある。そうなってはじめて、他人の意見と「ぶつけられる」。

集団の中で意見が生まれるんじゃなくて、個人の中に既にあったものが、集団の中で輪郭を持つ

そしてグループワークの最後、また一人に戻す。「今日、あなた自身はどう思いましたか?」という時間。集団の中で揉まれた後に、個人に戻ることで、「自分が変わったこと」「変わらなかったこと」が見えてくる。

この順番を守るだけで、場の空気がまるで変わる。


発信と受信に分けることへの疑問——もう一歩踏み込んで

もう一つ、今日ずっと引っかかっていたことを書く。

「発信する力」と「受け止める力」を分けて考えようとする場面が、教育の現場には多い。でも今日、その分け方自体がそもそもおかしいんじゃないか、と思った。

発信と受信は、本当は同時に起きている。誰かの言葉を受け取りながら自分の思考が動く。その動きがあってはじめて、言葉が出てくる。

問題は、それを「同時にうまくやろう」とすることだ。

相手の話を聞きながら、次に何を言おうか考える——これ、マルチタスクだ。マルチタスクは、どちらの質も下げる。「聞いているふり」になるか、「自分の言いたいことだけ言う」になるか、どちらかに流れていく。

だから、一度その舞台から降りる必要があると思う。

「自分に強く関係すること」について、いきなり自由に話せるわけがない。まずは自分と切り離した話題で、「聞くだけ」を練習する。次に「受け止めるだけ」を練習する。それができてから「自分の言葉で返す」に進む。

シングルタスクで、一つずつ。

これ、仕事でも全く同じだ。マルチタスクをやめて、一つを丁寧に終わらせてから次へ。それだけで、信じられないくらい思考の質が上がる経験を、僕自身が何度もしてきた。

対話も、思考も、同じ構造をしている。


今日の問いを、未来に持ち越す

コーディネーターとして現場に立つたびに、かつての自分と目が合う瞬間がある。

黙っている生徒の中に、あのときの自分がいる。

その生徒に「なんで黙ってるの?」と聞くことは、かつての自分に「なんで黙ってたの?」と聞くことに似ている——そして、その問いがどれだけ的外れだったかは、もう知っている。

だから僕が設計したいのは、「発言させる場」じゃない。「黙っていても、ちゃんと考えていられる場」だ。

その場から自然に言葉が生まれてくるとき、たぶんそれが本物の対話になる。

まだ全部わかっていないし、設計として完成もしていない。でも今日のこの問いは、しばらく大事に持ち歩こうと思う。

西

西田井祐也|社会教育士