生徒主体の探究イベント、先生が何も知らなくても大丈夫な理由

水曜日の玉野高校。来週に迫った授業「エジソン」について、担当の先生と打ち合わせをしていた。人員配置、生徒のグループ分け、欠席が出た地域の方の再調整、そして当日、1年生の先生たちが困らないための確認。決めるべきことは、ほぼすべて決まった。
それでも、打ち合わせのあとに引っかかっていることがある。1年次の先生方は、エジソンを経験した人が一人もいない。つまり「何も知らない先生たち」が、当日の教室に立つことになる。
この状態を、私はどう見ればいいのか。不安は消すべきなのか。それとも、消さなくていいのか。生徒主体の探究イベントを準備していて、この問いに突き当たった。
先生たちの「わたわた」は、どこから来るのか
打ち合わせの場で、先生方がわたわたしているのが伝わってきた。具体的な質問が飛び出したわけではない。ただ、イメージしきれないがゆえの心配や不安を抱えているんだな、という空気があった。
その不安をほどいてみると、たぶん3つに分かれる。
ひとつ目は、場面が見えないこと。どういう回になるのか、教室がどんな景色になるのか、想像がつかない。
ふたつ目は、役割が見えないこと。当日、自分たちは何をしたらいいのか。どういう関わり方をすればいいのか。
みっつ目は、意味が見えないこと。この授業に、どんな教育的な意義や目的、ゴールがあって進んでいるのか。
場面、役割、意味。先生方が知りたかったのは、段取りの細かい部分よりも、この3つだったのではないかと思う。経験者が一人もいない学年なら、なおさらだ。
「紙一枚くらい用意できたはず」という反省
ここで正直に、反省を書いておく。
もう少し事前に、私がこの空気を把握できていたら。紙を用意するなり、写真を用意するなりして、できることがあったのではないか。
コーディネーターは、先生全員と直接話せるわけではない。窓口は担当の先生で、その先生を通して、ようやく他の先生方に情報が届く。だとしたら、何を伝えるかを私のほうで整理しておく必要があった。同じ景色を見てもらうための材料づくりは、現場にいる私の仕事のはずだった。
ただ、「今からでも間に合う」とも思っている。エジソンは来週だ。伝えたいことを紙1枚にまとめて、データで担当の先生に送る。それをどう使うかは、先生にお任せする。できることはやる、くらいの距離感でいい。
先生が知らないことは、生徒の出番になる
ここから本題。
エジソン当日、受付や司会の運営を担うのは、先輩の2年生たちだ。エジソンの実行委員会として動いてくれる。私が目指しているのは、できるだけ生徒たち自身が運営していける、手作り感のある持続可能なイベントだ。
この前提に立つと、「先生が何も知らない」という状態の見え方が変わってくる。
玉野高校の先生方は、ついおせっかいを焼いてしまう優しい人ばかりだ。段取りを知っていれば、先回りして手を出したくなる。生徒が迷っていたら、答えを教えてしまいたくなる。優しさは、ときに運営の主導権を静かに奪う。
でも、知らなければ手の出しようがない。わからないことは、生徒に聞くしかない。結果として、運営の舵は生徒の手元に残る。
自分の手元から手放すという意味では、知らないこと、わからないことがあっても大丈夫だ。学校という場所に、それがそのまま当てはまるかどうかは、正直わからない。けれど、ありかなと思っている。
先生が何も知らないことは、不安の種であると同時に、生徒に渡す余白でもある。
足場は、外すためにかける
ここで、教育心理学の話をひとつ。
「足場かけ」という考え方がある。ウッド、ブルーナー、ロスが1976年に提唱した言葉で、学ぶ人が一人ではできないことを、大人が一時的に支え、できるようになったら支えを外していく、というものだ。建設現場の足場と同じで、かけっぱなしにするものではない。
もうひとつ、デシとライアンの自己決定理論。人は「自分で決めている」という感覚、つまり自律性があるとき、内側から動きやすいとされる。裏を返せば、周りが手を出しすぎると、この感覚は薄れやすい。
この2つを、今回の場面に重ねてみる。
実行委員の2年生たちにも、もちろん足場は必要だ。ただ、その足場は「先生がすべてを知っていて、指示を出す」形でなくても成り立つかもしれない。先生が知らないからこそ、生徒が自分たちで決めて動く余地が生まれる。
一方で、1年次の先生方には、別の足場が要る。「何をするか」を細かく指示する足場ではない。場面、役割、意味という3つの不安に対して、「エジソンとは、こういうものかもしれない」というイメージの足場だ。紙1枚は、そのためのものになる。
そして、足場である以上、外すことを前提に、軽くかけたい。
不安は消さなくていい。でも、放っておかない
「不安は消さなくていい」と書いたけれど、不安を放置していい、という意味ではない。
先生方の「わたわた」は、場面と役割と意味が見えないことから来ていた。ここで、すべてを事前に説明して不安をゼロにしてしまうと、今度は先生が運営者になってしまう。それでは、生徒主体のイベントではなくなる。
かといって、何も渡さないのも違う。教室に立つ人が、まったく景色を想像できないまま当日を迎えるのは、先生にとっても生徒にとっても、もったいない。
だから、どこまで渡すかが、たぶんいちばん難しい。全部を教えるのでもなく、全部を放るのでもなく、「こういう場になるかもしれない」というところまで。細かい部分は、当日、生徒たちの運営の中で見えてくればいい。
これは、紙1枚を書くときの課題であり、同時に、コーディネーターという仕事そのものの課題でもあると思う。
コーディネーターとして、次にやること
エジソンには、地域の方も関わってくださる。今回は欠席の方が出たので、その再調整もした。生徒がいて、先生がいて、地域の方がいる。三者はそれぞれ、違う景色を見ている。
私の仕事は、その間に立つことだ。生徒が運営するイベントの中に、地域の方と先生をどう迎え入れるか。先生には、どんな距離感で場に立ってもらうか。それぞれの景色を、少しだけ重ねる。重ねすぎないように。
「同じ景色を見る」ことと、「全員が同じことを知っている」ことは、たぶん別のことだ。同じ景色を見るためには、全員が全部を知っている必要はない。大枠のイメージが共有されていれば、細部は、その場にいる人たちが埋めていく。
学校と地域をつなぐ仕事をしていると、つい「ちゃんと伝えなきゃ」と力が入る。でも、伝えすぎることが、相手の出番を奪っていることもある。今回の水曜日は、それを教わった時間だった。
まだ答えは出ていない
紙1枚に何を書くのか。担当の先生が、それをどう使うのか。当日、1年次の先生方が、どんな顔で教室に立っているのか。
決まっていないことのほうが多い。
でも、先生たちが「知らない」ことを、不安として潰すのではなく、余白として受け取れるなら。それは、生徒にとっても、先生にとっても、いい出発点になるんじゃないか。そんなことを、来週の本番に向けて、考えている。
2年生の実行委員が、どんな声で受付をして、どんな言葉で場を回すのか。楽しみだ。たぶん、私が思っているより、ずっとちゃんとやってくれるはずだ。
玉野高校・玉野商工高校 コーディネーター
西田井祐也


