Canvaを渡せば、ポスターは作れるのか。
「先生、これってどこに何を書けばいいんですか?」
玉野商工高校の教室。Canvaの画面を前に、ひとりの生徒が手を止めていた。テンプレートはもう選んである。色も悪くない。でも、肝心の真ん中が空白のままだ。
今日は商工高校の勤務日だった。10月16日のCanva講座に向けた準備と、すでに先週から始まっているCanvaの授業のフォローで、各クラスを回っていた。操作がわからない生徒に声をかけ、進捗を確認し、ときどき質問に答える。
そのなかで、ずっと頭に残った問いがある。
Canvaを渡せば、ポスターは作れるのか。
答えは、たぶん「作れる。でも、それはポスターの"形"であって、伝えたいことではないかもしれない」だ。
授業が、ちゃんとつながっていた
先に、良かったことを書いておきたい。
以前、玉野商工高校で初めて「お仕事フェス」という形の授業を試した。地元のクリエイター、動画クリエイター、オンライン秘書さん、Webデザイナー、そして私たちNPO法人玉野SDGsみらいづくりセンターも参加し、生徒たちが地域の「働く人」と直接出会う場をつくった。
今回のCanvaの授業は、その続きになっている。フェスで出会った人や、興味を持った企業を題材に、チラシやポスターを制作する。授業が単発で終わらず、前の授業の「出会い」が次の授業の「素材」になっている。
これが、本当に良かった。
学校の授業は、どうしても一コマ一コマが独立しがちだ。月曜の授業と木曜の授業が、生徒の頭の中でつながっていないことは珍しくない。教育心理学ではこれを「学習の転移」の問題として扱うが、ある場面で学んだことが別の場面で自然に使われることは、思っている以上に起こりにくいと言われている。
今回はその逆だった。フェスで感じた「この人、面白いな」という感覚が、そのまま制作の動機になっている。
そして何より、Canvaを使うこと自体が目的になっていなかった。「Canvaの使い方を覚えましょう」ではなく、「あの企業の魅力を伝えよう。そのための道具がCanvaだ」という構造。ツールが本来の「手段」の位置に収まっていた。
自己決定理論という心理学の枠組みでは、人が内側から動くには「自分で選んでいる感覚(自律性)」が大切だとされる。自分で選んだ企業について作る。これだけで、課題は「やらされるもの」から少しだけ「自分のもの」に近づく。実際、みらいづくりセンターを選んでくれた生徒もけっこういて、私のところに質問をしに来てくれた。その目は、課題をこなす目ではなかった。
「魅力」は、どこにあるのか
一方で、見ていて引っかかったこともある。
生徒たちは、企業のホームページを開き、「いいな」と思ったところをポスターにしようとする。ここまではいい。でも、手が止まる。
「なんか、いい感じなんですよ」
「雰囲気が好きで」
その「なんか」の中身を、まだ言葉にできていない生徒が多かった。
これは生徒の能力の問題ではないと思う。むしろ人間の認知の仕組みそのものだ。心理学に「説明深度の錯覚(Illusion of Explanatory Depth)」という現象がある。2002年にイェール大学のRozenblitとKeilが示したもので、人は身近なものほど「自分はよくわかっている」と感じているのに、いざ仕組みを説明しようとすると、その理解がかなり浅かったことに気づく、というものだ。
「この企業、いいと思う」も同じ構造をしている。感じてはいる。わかっているつもりでもある。でも、「どこが?」「なぜ?」「誰にとって?」と聞かれると、急に輪郭がぼやける。
感じることと、言葉にできることの間には、思っている以上に深い谷がある。
そして、ポスターやチラシというのは、その谷を渡りきった先にしか作れないメディアだ。キャッチコピーを一行書くということは、「この企業の魅力を一言で言うと何か」を決めることでもある。ここが曖昧なまま枠を埋めようとすると、手が止まるのは当然だった。
抜けていたのは、たった一段の階段
では、何が足りなかったのか。整理すると、本来はこういう流れになるはずだ。
出会う・知る → 言語化する → 表現(デザイン)する
今回の授業は、「出会う・知る」(お仕事フェス、企業のHP)と「表現する」(Canva)はしっかり用意されていた。でも、その間にある「言語化する」という階段が、少し低く見積もられていたのかもしれない。
実はこれ、文部科学省が示している探究学習のプロセスとも重なる。学習指導要領では、探究を「課題の設定 → 情報の収集 → 整理・分析 → まとめ・表現」というサイクルで捉えている。今回でいえば、フェスやHP閲覧が「情報の収集」、Canvaでの制作が「まとめ・表現」。そして、その間にある「整理・分析」がいちばん薄かった。
認知負荷理論で考えると、もう少しはっきりする。人のワーキングメモリ(作業記憶)が一度に扱える情報は、かなり限られている。そこに「魅力を考える」「言葉を選ぶ」「フォントを選ぶ」「配置を決める」「Canvaの操作を覚える」を同時に乗せたら、処理しきれなくなるのは自然なことだ。手が止まったあの生徒は、怠けていたのではなく、頭の中が渋滞していただけかもしれない。
たとえば、こんな小さなステップがあるだけで、景色は変わる気がする。
- 「この企業のHPで、いちばん目が止まった写真はどれ?」
- 「その写真を、友達に一言で説明するとしたら?」
- 「その一言を、この企業を知らない中学生に届けるなら、どう言い換える?」
これはデザインの話ではなく、言語化の練習だ。でも、この問いを経た生徒の手は、Canvaの前で止まりにくくなると思う。
枠は悪者じゃない。でも
ここで誤解のないように書いておきたい。細かく設計された授業や、ワークシートの「枠」を頭ごなしに否定したいわけではない。
教育研究には、「最小限の指導で自由にやらせる方法は、初学者にとってはむしろ学びにくい」という知見もある(Kirschner、Sweller、Clarkらの2006年の論文が有名だ)。ゼロから「自由に作っていいよ」と言われても、多くの人は困る。枠や手順は、最初の一歩を支える足場になる。
教育心理学ではこれを「足場かけ(スキャフォールディング)」と呼ぶ。大事なのは、足場は最終的に外すものだということだ。建物が建ったあとも足場が残っていたら、それはもう建物の一部ではなく、ただの邪魔になる。
今回気になったのは、枠があること自体ではなく、「マニュアル通りに枠を埋めていく」ことが目的になりかけていた瞬間だった。
作業になった瞬間、Canvaで表現することの価値はガクンと下がる。
テンプレートの「ここにタイトル」「ここに説明文」を埋めること。それは確かに完成品を生む。でも、そこに生徒自身の「なぜこれを選んだのか」がなければ、それはクリエイティブではなく、入力作業に近い。
データもひとつ置いておきたい。アドビが2016年に日米英独仏の5カ国で行った創造性の調査では、回答者の約3分の2が、今の教育システムは創造性を抑えつけていると考えていた。また、自分の創造的な可能性を発揮できていると感じている人は31%にとどまっていた。
創造性は、才能の有無よりも「作業にされてしまう構造」によって削られていく。そう考えると、枠の設計はとても繊細な仕事だ。
コーディネーターとして、何をつなぐか
振り返ると、今回の反省点は「悪かったところ」というより「次に伸ばせるところ」だと思っている。授業と授業がつながったこと自体は、確かな前進だった。次は、そのつなぎ目にもう一段、階段を足せるかどうか。
これは私ひとりで決めることではなく、先生たちともう少しすり合わせていきたい部分だ。先生方には先生方の年間計画や評価の事情がある。そのうえで、「言語化のステップを一コマ挟めないか」「ワークシートを、埋める紙ではなく考える紙にできないか」といった提案を、押しつけではなく一緒に考える形で出していきたい。
もうひとつ、今回あらためて感じたことがある。高校生が「この企業のどこに惹かれたか」という着眼点は、企業側にとっても貴重なデータだということだ。
大人が自社の強みだと思っているところと、17歳の目に留まるところは、たぶんズレている。そのズレこそが、企業の広報や採用にとってのヒントになる。生徒のポスターが完成したら、それを企業に届ける。そうすれば、授業は学校の中で閉じず、地域に還っていく。
学校 → 地域 → 生徒の表現 → また地域へ。
コーディネーターの仕事は、この循環のつなぎ目に立つことなのだと思う。人と人をつなぐだけでなく、授業と授業、感じることと言葉にすること、生徒の目線と企業の学び。そういう「間」をつないでいく。
まだ、階段の途中
10月16日には、デザイナーの皆さんが教室に来てくれる。今日はその最終確認のやり取りもしていた。デザイナーが伝えてくれるのは、きっと「きれいに作るコツ」だけではなく、「何を伝えたいのかを先に決める」という順番の話になるはずだ。
それは、今日見えた課題への、ひとつの答えにもなる気がしている。
Canvaを渡せば、ポスターは作れる。でも、伝えたいことは、Canvaの中にはない。それは生徒の中にあって、まだ言葉になっていないだけだ。
その言葉を引き出す一段を、どう置くか。まだ答えは出ていない。でも、いい問いだと思う、たぶん。
SynQ Creative代表 / 玉野高校・玉野商工高校 コーディネーター
西田井祐也


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